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2024年12月23日月曜日

2024 11/18 古賀政男特集

 



お聞きいただき有難うございました。

11/18は日本の戦前から戦後70年代にまでかけて夥しい数の名曲を作り続けた歌謡界の大作曲家 古賀政男さんの誕生日にちなみ特集を組みました。その作曲の数は5000とも言われています。

 古賀先生! おめでとうございます!!



 


⭐️今日のアニソン

01 バロック・ホウダウン

 by ペリー&キングスレイ


02 

03 柔の男

 by 美空ひばり


04 丘を越えて by 藤山一郎

05 丘を越えて by 矢野顕子


06影を慕いて by 藤山一郎


07 男の純情 

 by 美空ひばり(演奏:シャープ&フラッツ)


⭐️ピアノスケイプ ピアニスト辻 千絵の音楽風景

08 アメイジング・グレイス

09 ブルー・クリスマス

10 クリスマス・ソング


11 ひろしまの母 by 島倉千代子


12 緑の地平線 by 森進一


13 二人は若い 

 by ディック・ミネ & 星玲子


14 東京ラプソディ by 藤山一郎


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01 恒例の今日のアニソンは11/18は世界で最も有名なアニメキャラクター=ミッキーマウスの誕生日でもありました。

 ディズニーランドのエレクトリカルパレードでお馴染みのペリー&キングスレイが1967年にモーグシンセサイザーで演奏したこの楽曲をセレクトしました。

 ミッキー! おめでとうございます!!

 

 ディズニー初のトーキーアニメーション映画「蒸気船ウィリー」の公開日の19281118日に因んでいますが、単に「スクリーンデビューの日」とする見解もあります。

 「蒸気船ウィリー」は3番目に製作されたミッキーマウス作品。前二作は無声つまりサイレント映画でした。そしてミッキーマウスの初めての声優はなんとウォルト・ディズニー本人だったのでした。

 

バロック・ホウダウン

 by ペリー&キングスレイ

https://youtu.be/Ax00vnsZPKE?si=nurwCxWSWesAXwpW



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0203について

1964年(昭和39年)の11月にリリースされた美空ひばり


『柔』


はリリースから半年足らずで180万枚以上を売り上げる大ヒットだったという。私もこのシングルレコードを持っています。

 それまでの美空ひばりの全シングルの中で最高売り上げとなりさらに現在までは195万枚という記録となっている。

 これは美空ひばり生前のシングル売上では1位であり最晩年の1989年に発売された「川の流れのように」は没後に記録を伸ばし現在まで205万枚を記録しているので美空ひばりの歴代シングルでは2位ということになります。


1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞受賞曲。

NHK紅白歌合戦』には19641965年と2年連続でこの曲を歌唱。


 「柔」の空前のヒットの背景として

1964といえば東京オリンピックの年でしたが柔道が正式種目になったこと。講道館柔道をドラマ化したドラマが3シリーズ放送され「柔」が主題歌として起用されたことが挙げられます。『柔の男』もドラマで使用された楽曲だったわけです。


ドラマ監督の渡辺邦男氏の強い希望で作曲:古賀政男、歌:美空ひばりが実現したといわれています。ひばりさんは依頼の際に男性が歌った方が良いと思い一度は断っている。

「柔」、「柔の男」共に作詞は関沢新一氏であり関沢さんは都はるみ「涙の連絡船」の作詞もされていますが『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などの特撮ものの脚本家として知られている方でウルトラシリーズの金城哲夫上原正三の両氏の師匠にあたる方です。



https://youtu.be/bubsZhFghb4?si=6pAr-qDi3uIdth3k



柔の男

https://youtu.be/8AkJe8RB5SQ?si=B5Es5ji7-BO3AuqU



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0405について


古賀政男の戦後の代表曲が「柔」なら戦前の代表曲は「丘を越えて」ではないだろうか?

いや古賀メロディーに代表曲を12曲だけ選ぶなんて野暮というものだろう。


 私はこの曲を中学生の時に自動車のテレビコマーシャルで初めて聞いて素晴らしい曲だなと感動しFMのリクエスト番組でオンエアされているのを録音して何度も何度も聴いたものです。

 ラジオとCMで使用されていたのは戦後に再録音された音質の良いヴァージョンだったけど実際に初めてリリースされたのは1931年、つまり昭和6年で歌唱したのは藤山一郎。私の亡き父は藤山さんのファンだったろう。よく藤山さんの歌を口ずさんんでいた。

 リリースされた年に映画『姉』の主題歌としても使用された。

作詞は島田芳文氏で島田青峰、若山牧水の両氏に短歌を学んだ文才。この歌の歌詞のイメージは北軽井沢の浅間牧場の風景が原風景で浅間牧場には「丘を越えて」の歌碑もあるとのこと。行ってみたい場所のひとつです。


島田さんは戦後は地元で農業をしながら小中学校の校歌に詩を提供している。

 島田/小賀/藤山のトリオでは戦前のまだ戦時下に陥る前の日本で「丘を越えて」をはじめ「キャンプ小唄」、「スキーの唄」が大ヒットしそれぞれの名声を高めたであろう。


 さて、では作曲についてですがWikiなどの記録によると古賀政男さんは明治大学マンドリン倶楽部の後輩と稲田堤へピクニックに行った際に満開に咲き誇る桜を背に酒を酌み交わし、下宿に戻ると学帽についた一枚の桜の花びらにふと気がついた。これを見て二度と帰らぬ若さと青春がいとおしくなった。そのとき浮かんだメロディーを愛用のマンドリンを取り弾いてみた。面白いようにメロディーが次から次へと浮かんだのだという。

まさに青春の衝動的感情がなせる業だろう。

あの明るいどこか牧歌的でカントリー風の持ち味のある歌はかくして生まれたわけである。


そして時は流れてこの曲をカヴァーして藤山さんを大いに感動させたのは矢野顕子さんでした。


矢野顕子 さんの1976年のソロデビューアルバム『JAPANESE GIRL』に収録されていますがリリースの数ヶ月前にNHKオーディションでこの曲を披露し審査員を務めた藤山さんに絶賛されたというエピソードが残っている。


「素晴らしいピアノにのせて思い切った表現で歌われた。これにはビックリした。弾き語りと簡単に言うけどね、できるもんじゃないですよ。もっともっとチャレンジして、若さはチャレンジだ。ぶつかっていって新しい形をこしらえて。あれでなけりゃいけないってことは無いと思うな。」


— 藤山一郎、若い広場「矢野顕子の世界」』より


参考

https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail168.html



丘を越えて by 藤山一郎

https://youtu.be/Uy54auHnKhA?si=bn1k_y5v7cUyXbuW


丘を越えて by 矢野顕子

https://youtu.be/fv-tRc_zgaw?si=WSfU207bWrYsb_Yy




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06 影を慕いて』について


古賀政男が作詞も手がけた歌曲。

オリジナル歌唱の佐藤 千夜子版の次の年の1932年(昭和7年)に藤山一郎版が歴史的大ヒットを記録。


 年号が昭和から平成に変わった1989年にNHKで放送された『昭和の歌・心に残るベスト200曲』という番組が放送されました。

当時の全国20代以上の2000人にアンケート調査を行い昭和期の日本の流行歌のランキング200曲を紹介した番組でした。



影を慕いて』は第2位だったのでした。


実際に私はこの番組を観てこの曲を知りました。ちなみに「丘を越えて」は第20位で第1位は藤山一郎「青い山脈」(作詞:西條八十/作曲:服部良一)で藤山先生(わたしは勝手ながら先生と呼ばせていただいています)の楽曲はベスト20位内に3曲ランクインしている。

3曲以上ランクインしているのは美空ひばりさんとと藤山一郎先生だけです。




この曲のメロディーは殆ど『美しき天然』(作曲:田中穂積 1902年つまり明治35年完成の唱歌)を流用しているといわれています。

 『美しき天然』のメロディーは中山晋平『船頭小唄』で古賀政男では『サーカスの唄』『悲しい酒』でも流用され日本歌謡曲のルーツの一つともいうべきものでしょう。



この曲の制作に関してはこんなエピソードがあります。


Wikiによると


1928年に古賀政男は悲恋などが原因で青根温泉(川崎町)で自殺を図ったことがあった。

そのときに蔵王にかかった夕焼けを見て一片の詩が浮かんだ。この詩が後に「影を慕いて」の歌詞になっていく。


その後大学を卒業し1929年(昭和4年)6月、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会でギター合奏曲として発表。おそらくこの時点では歌詞は付いておらず純粋な器楽曲として書かれたのではないでしょうか。


その演奏会にゲストで出演していたのが当時の人気歌手の佐藤千夜子に流行歌にすることを勧められ


その年の秋にクラシックギターの世界的奏者のアンドレス・セゴビアの演奏に感銘し触発され流行楽曲として完成し


1930年(昭和5年)10月に佐藤千夜子の歌唱/明大マンドリン倶楽部の伴奏でレコーディング。


翌年1月『日本橋から』(作詞:浜田広介、作曲:古賀政男)のB面として発売するもヒットにはならず。


このレコードを日本コロムビアレコードの営業マン伊藤正憲氏が見つけたことで転機が次の転機が訪れます。


1931年頃にデビューした当時は正体不明の歌手に歌わせることになったのですがその歌手こそが本名増永 丈夫、つまり藤山一郎でした。


正体不明にしていたのは理由がありました。

音大生だった藤山さんは学校の規則で校外演奏が禁じられていましたが不況の煽りで廃業した実家の家計を救うべく写譜のアルバイトをしていましたが、それでも収入は少なかったことから流行歌のレコードの吹き込みを偽名を使って始めたということです。


ところがそれが在学中の東京音楽学校(東京藝術大学の前身)に知れることにより一ヶ月の停学と今後のレコード吹き込みの禁止という処分がなされた。


『影を慕いて』はこの停学中に既に吹き込み済みであるとしてレコーディングされリリースされたのだという。これを機に藤山さんは学業に専念し主席で東京音楽学校を卒業、その後のご活躍はご存じでしょう。


翌年の1932年(昭和7年)3月に日本コロムビアから藤山一郎歌唱のレコードがリリースされ昭和を代表する流行歌となりました。

「古賀メロディーを歌う」と冠したアルバムが様々な歌手でリリースされていますがこの曲は必ずといっていいいほど収録されています。



影を慕いて by 藤山一郎

https://youtu.be/t_yDYoy9kYk?si=h7wUOopsDVN7ON8o


今回は「なにわのひばり」の異名を持ちカントリーシンガーとして全米でも活躍したトミ藤山さんの弾き語りヴァージョンもご紹介しました。シンガー自ら弾き語るスタイルは珍しいですね。

https://youtu.be/g5NQIDOOnH4?si=7GPsa-txksO_rYZ4



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07は美空ひばりの218枚目のシングルとして

1965720日にリリースされた音源から。


「影を慕いて/男の純情」


というカップリングで両面とも藤山一郎/古賀政男作品のカヴァーですが今回はB面の「男の純情」をオンエアさせていただきました。 編曲は佐伯亮。原曲の発表年は昭和11(1936)


選曲した理由がありまして本曲の演奏が

原信夫&シャープスアンドフラッツということで放送日の次の日11/19が原さんのお誕生日だったのです。原信夫さんの特集もいつかぜひしたいものです。


「この歌をひばりとともに」(1965年リリース)というカヴァーアルバムにも収録されています。

  

 男の純情 

 by 美空ひばり(演奏:シャープ&フラッツ)

https://youtu.be/USB74o1X7rU?si=oplaAW-p_r3_X8cJ



藤山一郎ヴァージョン

https://youtu.be/_rWUDFag2uI?si=RZ3KgarlLHhzd18P


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「ピアノスケイプ ピアニスト辻 千絵の音楽風景」はクリスマス定番の3曲をお送りしました。

アメイジング・グレイス

ブルー・クリスマス

クリスマス・ソング


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111974年(昭和49年)に

4回広島平和音楽祭にて島倉千代子歌唱のために作曲した楽曲です。

 古賀先生は同音楽祭の実行委員長も務められました。そしてこの曲が作曲家古賀政男の生前の最後のレコードになったということです。


ひろしまの母 by 島倉千代子

https://youtu.be/zs234boDGuk?si=u_5TTYkS5Pfu-B1J



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12は児童作家・横山美智子 原作の小説を1935年(昭和10年)に阿部豊監督により映画化した劇場作品の主題歌として作曲された楽曲。原曲は楠木繁夫の歌唱。

また1962年にはたテレビドラマ化もされていますが、映画版のフィルムは戦災で行方が不明となり現在は僅かなスチール画像が残るのみ。ですが主題歌となった本曲が愛唱され続け現在も古賀政男の代表曲の一曲として知られています。今回は森進一によるカヴァーで聞いていただきました。


緑の地平線 by 森進一

https://youtu.be/lzeCrIbtDSE?si=paomnVSECCkMSkIR


楠木繁夫オリジナル版

https://youtu.be/VfHtMW1qP3k?si=KB2mcdOt0LjNkc3W



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13も映画からの楽曲ですが元々は主題歌のB面としてリリースされました。

 1935(昭和10)に公開された映画「のぞかれた花嫁」の主題歌は杉狂児の同名曲だったのですが歌詞に問題があるとして主務省から発禁となり問題とされた歌詞を改作されて再リリースされました。


リリース元のテイチクはB面だった「二人は若い」の方を中心にプロモーションを行った結果として杉狂児 A面曲を上回るヒットとなったという。

本曲は1989年のNHK『昭和の歌・心に残るベスト200曲』では75位にランクインしました。私も当番組で知りました。



二人は若い 

 by ディック・ミネ & 星玲子

https://youtu.be/aEDig-WfZ9Y?si=vbux_eH6k6mBPfd0



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14は今回最も紹介したかった楽曲の一つです。1936年(昭和11年)発表の曲で歌唱は藤山一郎。作詞は門田ゆたか、戦前のわずかな期間「昭和モダン」の時代の末期頃の東京を表現している。一聴してこれはいつの時代の東京だろう?とイマジネーションをくすぐられる。

古賀先生は1929年(昭和4年)の「東京行進曲」(作詞・西条八十、作曲・中山晋平)に刺激を受けてそれからさらに時代が進みさらにモダンになった東京を書いてみたいという思いでこの曲を作ったという。

 この曲を紹介しているwikiには

「フォードのクーペの新車に乗って初夏の明治神宮外苑付近を走行中に、自然とメロディーが浮かんできた。こうして曲が先に完成し、後から古賀と門田ゆたかが共作のような形で詞を作った」

と記載されていて歌詞の面でも古賀政男が大いに貢献されたことが窺い知れます。

 歌唱した藤山一郎は当時所属してしていたビクターからテイチクへ移籍してこの曲のレコーディングに挑んだ。それは古賀政男とのコンビ復活でレコードセールスから得られる収入を期待したと言われています。

 その背景としてあるのはご実家の家業が借金を抱えて廃業しておりその返済がまだ残っており「心の中で神に祈る気持」だったのだという。

 結果として『東京ラプソディ』は35万枚を売り上げ、これにより実家の借金は完済。藤山一郎自身の再び歌手として脚光を浴びるに至ったというドラマティックなエピソードが残っています。


もう一つ面白いエピソードとしてこの曲がリリースされて53年後の1989年に山下達郎が


「新(ネオ)・東京ラプソディー」

という曲をリリースしました。


達郎さんは戦前の日本映画の素晴らしさを知り昭和初期の文化への共感を違う時代を生きている自分自身と照らし合わせて表現してみたいと思い曲を書いたという。




東京ラプソディ by 藤山一郎

https://youtu.be/bRGa7qn4GXg?si=lBnTXbmhNLsY6H0T





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